テレンス・マリック監督作品『ツリー・オブ・ライフ』を見かえしました。いま是枝監督『万引き家族』の受賞で沸いている、カンヌのパルムドールを2011年に受賞している作品です。パルムドールと言えば、何をおいても『パルプフィクション』が好きですが、この『ツリー・オブ・ライフ』にはまたちょっとした思い入れがあります。
冒頭から宇宙の誕生、世代交代を繰り返してきた生命、ある種の絶滅…など地球の歴史をなぞるかのようなシーンが繰り広げられ、やがてその歴史の末端の人間の一家族の物語になっていきます。この家族とはテレンス・マリック監督自身の両親と兄弟です。
レビューで多くの方が触れている通り、ちょっとほかに類を見ないくらい映像が美しい作品です。このまま額にいれて美術館に展示できるくらいの画です。乳幼児や少年の目線から見える世界や、自然光に拘った画作りに圧倒されます。今なら8Kで見てみたいと多くの人が思っているのではないでしょうか。
ストーリーは物議を呼んだくらいに断片的で説明不足で、出演者であるショーン・ペンも「意味不明」とコメントしたらしいです。劇中でも神との対話とみられる突然のやりとりが何度もあります。
冒頭では旧約聖書の引用がされ、タイトルは直訳すれば『生命の樹』。いうまでもなくエデンの園に生えていた例の樹で、徹頭徹尾キリスト教的な世界観の物語です。恩寵が「光」で表され、この作品の随所でその美しさを使った演出がなされます。音楽もほぼクラシックで、宗教曲が多用されます。
LR
劇中、少年時代に「LR」という愛称でよばれている弟(三兄弟の次男)がクラシックギターを練習しているシーンが何回か出てきます。彼のモデルになっているのはラリーという名の監督の弟(マリック監督は映画と同じく三兄弟の長男)で、20世紀を代表するクラシックギターの巨匠・セゴビアの教えを受けるべく、アメリカからスペインに渡ったといわれています。
しかし、ラリーは留学先で伸び悩み、不幸なことに自ら両手の指の骨を折ってしまったそうです。ギタリストが指を自ら折るほどの挫折、絶望は想像することすらむずかしく、本当に胸が痛くなる話です。
さらに不幸なことに、心配した父が大西洋を渡ってラリーを訪ねたときには、彼はすでに自ら命を絶っていました。映画でも同じく弟の死の知らせを受け取るシーンがあります。直接その死の描写はないのですが、どうやら亡くなったということが間接的に描かれ、一家に暗い影を落とすこととなります。
若手のギタリストたちの渡欧
僕の友人にも若いギタリストいて、やはり彼らの多くもクラシックギターの本場であるヨーロッパで研鑽を積むために留学をしています。(日本のクラシックギター界である程度実績を残すと、ほぼおきまりのコースとして留学という道が開けてきます)そして留学中、あるいは留学後に成長した姿を見せてくれているところを見るに、やはり渡欧して得るものは多いようです。
自らの音楽家としての成長の確認と実績作りのために、彼らは現地で数多く開催されているコンクールに出場します。しかしながら、世界中から腕自慢が集ってくるコンクールで実績を残せる人は、そう多くはありません。
あるときにドイツでの長期間留学から帰ったギタリストが「(練習の成果が出ずに)気がおかしくなりそうなほどだった」ということを話していました。飄々としたお調子者の彼の口から出た言葉に、衝撃を受けたのを今でも覚えています。
60年代のテキサス州におけるクラシックギターシーンの様子は知る由もありませんが、ヨーロッパとの格差という点ではおそらく状況は似ていて、ラリーが味わった挫折もより具体的なものとして感じられます。
家族と音楽
ブラッド・ピットが演じる厳格な父親・オブライエンもマリックの父親がモデルとなっているようです。かつては音楽家を志していたが夢叶わず、その思いを長男テレンスではなく次男ラリーに託したようでした。
劇中にはピアノやパイプオルガンでバッハを弾いたり、次男のギターに伴奏をつけたりするシーンも出てきます。実際にシーンとしてはないけれど、「譜めくりが乱暴だ」と父に折檻されたという回想シーンがあり、音楽が一家の中で大きな役割をもっていたことが示されます。
次男ラリーがテラスでギターを練習していて、それにオブライエンがピアノ伴奏をして二重奏する場面があるのですが、とても短いけど美しいシーンです。これがのちの悲劇につながっていくと思うと、とても悲しいシーンでもあるのですが。
つながっていく
父親の夢を託され、60年代にテキサスからスペインに渡り、不幸な運命をたどったギタリストがいた。しかもその兄は、いまとなっては名優たちが「金を払ってでも出演したい」という映画界の巨匠になっている。
僕はテレンス・マリックの亡き弟がギタリストだったことは全く知らず、巨匠テレンス・マリック監督作品だからこの作品を見たのですが、意外なところからつながりというものはうまれてくるものです。
エンドロールにはクラシックギターを弾く人ならば一度は弾くであろう、超有名曲が流れます。きっとラリーが弾いていたその曲が、マリック監督の耳にずっと残っていたのではないかと思います。
それがこうしてたぐいまれな傑作を生み、パルムドールを得るという快挙をなしたのが、何かこう、クラシックギターが好きなものとして、「くる」ものがありました。
父親の音楽への挫折が無ければ、ラリーは音楽の道へ進まなかったかもしれない。
セゴビアがいなければ、ラリーはスペインに渡ろうとはしなかったのかもしれない。
ラリーの死が無ければ、テレンスはこの映画を撮らなかったかもしれない…
若いギタリストが渡欧の末に挫折して両手をつぶして自殺する…本当に悲しい物語です。しかし、そんなこんなをすべてひっくるめて、悲劇も死もすべてが意味を持ち、『ツリー・オブ・ライフ』として、ただつながっていく。ラストシーンではそれを象徴するかのように、うつくしい光の中ですべての存在が輝いていきます。
この圧倒的な「肯定」というか「賛歌」というか、あるいはそうであってほしいという監督の「祈り」を感じる時、心の底から打ち震えるような感動がやってきました。
監督業40年で5作目のマリック監督映画。というか、壮大な「俺史」。非常に私小説的で、私的な告白であり、私的な祈りともいえる作品で、人によっては「なんじゃこりゃ」な作品ですが、クラシックギターをやっているひとには、ちょっと違った味わいがするのではないかと思います。